別居までのディスタンス~あだ名で呼ばないで~

同居して2か月、2015年初冬のことである。

夕食後、ソファでテレビを見ているとモラ夫が言った。
「(子供)をあだ名で呼ぶのはやめようよ」
私「え?なんで?」

あだ名の話題が唐突であったため、そのように聞かざるを得ない。この時点でローラのごとく「そうだね!OK!」と快く言うわけにはいかない。
物事にはそうしなければならないと思う理由があるはずである。私はそれが知りたい。

 

しかし、この段階でモラ夫は少しイラっとしている。私が素直にモラ夫の意見に従わなかったからである。
モラ夫「なんでって…。あだ名で呼ぶと自立心が育たないからだよっ」
顔を真っ赤にして吐き捨てるように言う。モラ夫の小さな器はすでにいっぱいいっぱいのたっぷたぷであろうことは容易にわかる。

しかし、そんな説は初耳である。
そして私は、あだ名で呼ぶことをやめる必要はないと思っているしやめる気もない。
モラ夫の「あだ名で呼ぶと自立心が育たない」説も全く信用していない。
さて。私はどうするべきか。

①「わかった!あだ名で呼ぶのはやめるね!」と言ってモラ夫の前でだけあだ名で呼ぶのをやめる
②私のあだ名で呼ぶことをやめたくない理由と、モラ夫の自立心が育たない説の詳細でディスカッション

まだこの時期は話し合いが可能だと思っていた。
そして、モラ夫の前でだけあだ名で呼ぶのをやめるというのは教育上よろしくないような気がした。夫のいない間に子どもたちと寿司を食べに行くような後ろめたさもある。
よって私は②を選ぶ。

っーか。めんどくさいわ!名前くらい好きに呼ばせろよ!と北斗晶風に言えたらどんなに楽であろうか。
その程度の小さな問題だと思うのは私だけだろうか。

私はモラ夫に懇切丁寧にあだ名の重要性を訴える。テーマは「あだ名は愛情のバロメーター」。ついついあだ名で呼んでしまうのは、相手のことが好きだからである。好きであればあるほどあだ名の数が増える。愛情の大きさとあだ名の数は比例している。あだ名は愛情の証であり、成長過程に悪い影響を与えてるとは思わないのであだ名で呼ぶことをやめたくない。モラ夫の兄弟も母親からあだ名で呼ばれているが、立派な成人に育っているではないか。と、ひと通りこんな感じで主張する。

 

モラ夫は私の主張を聞いているのかいないのか、共感してくれているのかいないのかはわからないが、モラ夫のハラワタがふつふつと煮えていることだけはわかる。

「あだ名で呼ぶと自立できないって言ってるだろうっ」とモラ夫は奥歯を噛み締めながら声を出す。

「だから、その理由を言えって」と言えない歯がゆさよ!

モラ夫のハラワタがもつ煮込みみたいに煮えたぎっているので私は言葉使いに細心の注意を払うこととなる。

「本当に申し訳ないが、私の勉強不足であだ名と自立心の関係は知らなかった。しかし大変興味深い内容なので面倒でなければ詳細を教えて欲しい。面倒であればその説がどこの出典のものか教えて欲しい。遅ればせながら勉強させていただこうと思う」という感じに。

ここまではよい調子であった。モラ夫もグラグラとハラワタを煮ながら黙っている。しかし、最後に付け足し、という感じで言った一言がいけなかった。

「そうだ!懇談のときに先生に聞いてみてもいいしね」

その言葉にモラ夫は喜々として飛びつく。

「オレと先生とどっちの言うことを信用するんだよ」そのさまは、鬼の首を取ったようであり、水を得た魚のようである。

私の適当に言った一言に渾身の力でしがみつく。

私だって実際に先生に聞くことはないのである。さらに言うと懇談があるかどうかもわからないのである。とんだ揚げ足取りである。

しかし揚げ足取りは正攻法では戦えないモラ夫唯一の武器。何を言ったところでハラワタのグラグラが収まらなければケチをつけられていたはずである。

それから1時間ばかり「オレより先生の言うことを信じるのか」「お前の考えは間違ってるんだよ」と同じことばかり繰り返す。

オウムだってここまで同じことばかりしゃべらない。

その間、グラグラと煮えたぎる小さな小さな鍋から赤い液体が飛び散る絵が私の頭を離れないでいる。

教訓

モラ夫は自分の考えが正しいと思い込み、人の考えを認めず、さらには自分の考えを押し付ける